2013年4月29日月曜日

巨泉のおもちゃ絵3題 「大阪張子面」・「住吉のぶとまがり」・「宮島の土鹿」


<この絵と文は、消滅したミックスパークに掲載したものです>


大阪張子面 

 「大阪で作る種々の張子面の内より頬被りをしたヒョットコの面を描き此醜男に対して虞美人草即ちヒナゲシを配しました。」

住吉のぶとまがり 

「摂津住吉神社の付近で売ったものであります。神前へ奉るぶとまがりと云う餅を小型に土で作って紙製の蘆がそえてあります。」


宮島の土鹿 

「安芸の厳島神社付近で売る土焼のものであってこれに千畳閣へ奉納する宮嶋杓子を描きました。この杓子は凡て物を掬うと云う縁喜を祝うて参詣者が奉納いたします。」 

 出典:『巨泉漫筆おもちゃ箱』大阪府立中之島図書館蔵
おもちゃ絵画家・川崎巨泉の会

大阪・・明治・大正・昭和
 大阪の歴史・文化史---ningyodo 人魚洞、kyosen 巨泉、巨の字、芳斎
 

1977(明治10)年大阪・堺に生まれた川崎巨泉は本名を末吉という。巨泉は雅号で”人魚洞”とも号した。小さいころから絵が好きで浮世絵師中井芳瀧に入門する。浮世絵には飽き足らず明治後期から図案も手がけるが、大正初期には郷土人形の絵を専門に描く”おもちゃ絵”画家として活躍しはじめる。郷土玩具の研究にも熱心に取り組み、『郷土趣味』『旅と伝説』『鯛車』などの雑誌や大阪の郷土研究誌『上方』などに多くの論考を発表した。昭和初期にはさながら大阪のおもちゃ博士であった。昭和17年9月15日に没し、その日が”巨泉忌”とされた。墓は堺の大安寺にある。
<上のおもちゃ絵は”古賀人形の土猿”  『巨泉漫筆おもちゃ箱』大阪府立中之島図書館蔵

2007年の復刻版 その2

日記

おもちゃ絵画家・川崎巨泉の会・調査日記
巨泉について調べたことをメモ風にでも記録して行きながら巨泉研究のネタ帳としたいものです。
 
Wednesday, 21 March,2007
肥田先生からの手紙
元関西大学教授肥田晧三先生から肥田渓楓や渓楓発行の個人誌『あのな』についていろいろと教えていただいた。先生には感謝の言葉もない。これから記事にして行きたい。
Monday, 19 March,2007
巨泉の気になることの数々
巨泉の生きた時代で、それぞれに気になる時期がある。まず明治20年代、巨泉が浮世絵師中井芳瀧に入門した時期。日清日露の戦間期。この時期に巨泉は浮世絵と図案の世界にいた。そして浮世絵師の最末期に当たる。そして最初におもちゃ絵展を開いた大正5年からおもちゃ絵集を出した大正7、8年の時期。
 明治20年代の大阪の洋画、日本画の様子、当時の画塾などはどうなっていたのか。日清日露の戦間期の思想と巨泉が描いた大阪名所の表現との関係性などいろいろ。
 
Sunday, 18 March,2007
『関西モダンデザイン前史』
図書館に行った。そこに宮島久雄著『関西モダンデザイン前史』(中央公論美術出版 平成15年)があった。この本の”第二部、第二章 町のスタジオー『日本印刷界』関係”の”六 他の図案家、図案所”に川崎巨泉の記述がある。以下は部分の引用。
「川崎巨泉は大阪歌川系の画家中島一鶯齋の孫弟子にあたる。増本と同じく、画家出身の図案家画家である。」p299
 中島一鶯齋の名前は初めて知った。これは調べなければならない。
 もう1つ気になるものを見つけた。この章の[註]である。そこに以下のようにある。
”12『巨泉おもちゃ絵集』二〇集、東京おもちゃ絵版画会 大正七ー八年”とある。この東京おもちゃ絵版画会とは一体何なのか。東京は出版地で、おもちゃ絵版画会が出版者なのか。初めて見る出版事項である。
Thursday, 15 March,2007
交友関係
巨泉の交友関係を調べていくと大正から昭和の大阪の趣味人に出会うことになる。その一人が肥田渓楓である。また蘆田止水、青木賢肇もそうである。彼らが出版した個人誌や残された日記が大いに役に立つ。特に興味深いのは青木賢肇の『苔瓦堂日録』である。彼らの日記などによって大正期の大阪・京都・中部・東京の趣味人の一大コレクションができそうである。
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Last updated: 2007/4/13

2007年の復刻版 その1

コラム

ここでは巨泉をめぐる様々な出来事、人物などについて書くことにします。これは消滅したホームページミックスの復刻版です。
肥田溪楓と個人誌『あのな』
肥田晧三先生のご教示によれば、肥田溪楓(本名弥一郎)は1877(明治10)年2月11日生まれ、1948(昭和23)年9月23日に没した。個人誌『あのな』は1924(大正13)年2月11日の第1、2号の同時発行から始まり1930(昭和5)年6月11日発行の第78号で休刊したとのことである。
 明治10年の生まれということは川崎巨泉と同年であり、巨泉より6年ほど長生きしたことになる。
 『あのな』について少しまとめておきたい。
第1号から12号の合集の題簽には『かぼちゃ あのな 掬水庵漫筆 第1集』とある。この合集の“かぼちゃ”の文字は2集が加保知也、3集カボチャ、4集嫁慕治家、5集假墓地野、6集稼暮痴夜と書いてしゃれている。肥田先生によれば合集の題簽は申し込んだ人に無償で贈呈されたという。『あのな』自体も無償であった。
 橋爪節也氏が『彷書月刊』平成18年5月号に肥田溪楓について書かれていることも教えていただいた。橋爪氏によれば、”表紙のかぼちゃの図案は川崎巨泉。書名と合わせて「あのなのかぼちゃ」となる”という。
 橋爪氏が簡潔にまとめられた「肥田溪楓」から引用させていただく。
 『あのな』は「蔵書目録を連載するなど、稀覯書を蒐めた学究肌の楓文庫主人らしい眼差しものぞかせるが、『あのな』の記事は、時代批評や民俗学的話題、玩具、芝居の話、肥田家の家庭報告など多岐にわたり、合本の題簽に「掬水庵漫筆」の副題を付すように、溪楓の強い個性を反映した、まさに”個人雑誌”と呼ぶべきものであった。芯の通ったよき趣味人、大阪ベル・エポックの洒脱な知識人らしいエスプリを感じさせる。」
 
 『あのな』に掲載された高橋好劇の記事などは大変面白いし、明治期の郷土大阪を描いて参考になるから、溪楓の記事とともに紹介して行きたい。
 
 
更新日時:
2007.03.26 Mon.
だるまや 木村旦水
木村旦水は本名助次郎。”だるまや”という書店兼版元の経営者。浪華趣味道楽宗から派生した娯美会の有力メンバーで、蒐集品は名家肉筆達磨絵葉書だった。また関西納札会でも活躍した。
 川崎巨泉のおもちゃ絵の多くは自家版で、会員を募って販売したから一般の人の目に触れる機会は少なかった。しかし出版もした。その版元がだるまやである。巨泉がだるまやから出版したものには次のようなものがある。
 『おもちゃ十二支』一帖 大正7年12月刊『おもちゃ十二月』一帖 大正15年1月着筆同6月完成『土俗紋様集』一帙十枚 昭和6年5月刊『おもちゃ博覧会』一帖 昭和12年1月刊
 
 川崎巨泉のおもちゃ絵がどれほどの部数出版され、売れたのかわからいない。この出版はあくまで巨泉の同好の士として巨泉を援け、巨泉の作品を世に残そうという心意気なのではなかったろうか。だから淡島寒月の父椿岳の『椿岳漫画』を大正8年に出すこともできたのではないか。それにしても椿岳の漫画を出版しようという目の付け所が凄い。
 木村旦水が以外なところに登場した。高見澤たか子氏の著書『ある浮世絵師の遺産ー高見澤遠治おぼえ書ー』東京書籍、昭和57年刊である。この書を帯で紹介しよう。
 「文豪荷風、建築家ライトを激怒させた贋浮世絵事件の陰にいた男。大正・昭和画壇の異才岸田劉生と江戸情緒も世界をさすらい、贋作者の汚名の中で浮世絵復刻に命をかけた天才浮世絵師高見澤遠治の波乱の生涯が初めて明らかにされる。(以下略)」
 遠治は関東大震災後、
 「急に大阪の錦絵問屋、だるま屋で仕事をする話がきまり、」「だるま屋では遠治をはじめ職人たちを月給制の丸抱えにして、将来遠治の制作になる版画を独占販売することになっていた。」
 だるまやの世話で天下茶屋天神の森に住んだが、遠治は大阪に馴染めなかった。
 「だるま屋へ行くと、主人が出てきて「まあおかけ、まあ、おかけ」というのが口ぐせであったが、それも遠治の癇にさわった」
 旦水もかたなしである。そうこうしている間にだるまやが 遠治に特別注文した浮世絵の複製は20数枚になっていた。ところが遠治と旦水の間で取り交わされた約束を反故にして旦水が、遠治の複製3枚を売り払い、それがフランスの美術館に入ったとの噂を遠治は耳にする。この事件で遠治はだるまやと縁を切った、というのである。
 原画と見分けがつかないほどの遠治の複製。それを旦水は複製と承知で原画と偽って売ったことになる。注文主旦水の横暴ということになるが、この事件がなかったとしても遠治と旦水が円満に仕事を終えたかどうか、両人の気質の違いを考えると心もとない。やはり両人がもう少し心を通わせていたらこのような事件は起きなかったのかもしれない。
 旦水は巨泉との関係でもわかるように芸術を理解する人だと思うし、作品を物としてみるような人ではなかったであろう。遠治の事件だけを見て旦水を悪徳商人のように思わないでいただきたいと切に思う。
 
 
 
更新日時:
2007.03.25 Sun.
巨泉と浪華趣味道楽宗(その3)ー『あのな』のはじまりー
個人趣味誌『あのな』は肥田溪楓が発行したと紹介した。そこで『あのな』の始まりについて書いておきたい。
 
 「あのあア」
あのあア、今度出る雑誌なア、ホンまに面白いし、道楽しやはる方がおあしを損したいさかいと云ふて、日本紙に刷りやはるといな、ことしや南瓜の当り年と云ふさかい、儲けんつもりやっても儲かるし、お金がだっか、いゝ江、草臥が…何んの為めに出しやはります、古い事が知りたいさかい、郷土の研究がしたいさかい、大阪の歴史が調べたいさかい、ホンまにさうかいな、あのあア、あのなア
 玉造の身をしのぶ昔男甚兵衛の袖寒き春の初め  霞亭記
 
 これは渡辺霞亭が書いた『あのな』の宣伝文である。
 
 1913(大正2)年のこと「何か売らない雑誌、売るとしても買手のない雑誌を道楽出版したいと」いことで始まって、会の名前が壮哉小会(そうやさかい)。会則も決めた。このとき集まったメンバーは渓楓他2名というが人物の名前は分からない。
1.本会は談笑娯楽の間に歴史、風俗、古実等の研究をなすを以て目的とす。
2.本会は右の目的を以て毎月一回以上特別会員に限り集会を開催す
3.本会は機関として雑誌「アノナ」を発行し会員に限り配布す
4.本会々員を分ちて特別会員、賛助会員、通常会員の三種とす
5.本会を直接間接に補助する者を以て賛助会員とす
6.普通会員は毎月金弐拾銭を収むるものとす
7.入会、退会、転宅等は其都度住所、姓名、雅号、趣味等を明瞭に記載通報すべし
 会則ができたので賛助会員の渡辺霞亭、渡辺虹衣、川崎巨泉、木村旦水、相野青牛らの承諾を得て、1914(大正3)年にスタートすべく霞亭に頼んで書いてもらったのが「あのなア」である。
 渡辺虹衣は本名源三、骨董研究の大家である。虹衣は1918(大正7)年から1919(大正8)年にかけて版行した巨泉の自家版で最初のおもちゃ絵集『巨泉おもちゃ絵集』の序文を書いている。
 木村旦水は本名助次郎、古書店兼出版社だるまやの経営者。巨泉のおもちゃ絵の出版と販売を援けた。巨泉のおもちゃ絵は自費出版が多いが、出版社から出したものは1冊を除きすべて”だるまや”が木版で出版した。
 相野青牛はよくわからないが、大正時代巨泉が属した錦秋会の同人であった。彫刻家といってよいのだろうか。
 
 
更新日時:
2007.03.26 Mon.
巨泉と浪華趣味道楽宗(その2)
浪華趣味道楽宗を開山したのは高橋好劇である。梨園山好劇寺の住職東堂然仏が高橋好劇である。『大阪人物辞典』によれば、好劇は1866(明治元)年大阪生まれ。染色業を生業とした趣味人、壮年期から芝居の道具類や郷土玩具の収集に熱をあげたという。故に劇が好きで好劇である。
 好劇はまた関西納札会を仕切った人でもあった。関西納札会の重要人物は好劇と青賢肇の2人である。青賢肇は別に紹介しなけばならないが、本名は青木賢肇(あおき・としただ)。大阪朝日新聞社の調査部に勤務した知識人であり趣味人であった。彼らは無論巨泉のおもちゃ絵の同好の士である。
 
 もう1つ道楽宗を紹介した文章がある。書いたのは三好米吉。柳屋書店、のちの柳屋画廊の主・米吉である。米吉は柳屋に巨泉のおもちゃ関係の絵本を置き販売に協力し郷土玩具も置いた。
 「数年前より大阪の好事家仲間の変人凡人諸君が寄り合いて浪華趣味道楽宗三十三所の御寺ゴッコを創め、毎年春秋に無縁狂、施雅喜御恵四季、宝物展覧、本尊出開帳を催し、殊に去年の夏などは三州岡崎より尾州犬山へ布教に順錫するなど創宗の歓喜と道楽の法悦とそゞ現世を楽しみつゝあります。道楽宗三十三所の次に新道楽宗各三十三ケ寺都合九十九ケ寺の外に尾張道場として和楽山百牛寺以下九ケ寺、別院として研学山栄州乃路寺、お札博士寿多有上人を加えて宗門の繁盛趣味の興隆にこゝに極まれりと言うべし、です。」
「如是我聞本宗は他力自力の本願にて誰人も信仰の勝手自由にして人を茶にし偽りを言はす無欲限りなくして克く人の笑を受け朝夕は看経勤行も入らず自分勝手の熱を吐き日の永きも忘れ夜の更くるも不知るが道楽宗の妙諦なれば各札所霊場を巡りて線香の代りに煙草を燻べお茶でも呑んで住職に接し御利益を受けられましょう。詠歌 おしなべて高き低きも道伴で 趣味の巷に遊ぶたのしみ」(『柳屋』22号収載)
 
 ここで注目すべきは、和楽山百牛寺と研学山栄州乃路寺である。
 和楽山百牛寺は名古屋の好事家加藤百牛であるし、研学山栄州乃路寺は大正時代の趣味人たちにとっては御札博士として有名であったアメリカの人類学者フレデリック・スタールである。
更新日時:
2007.03.16 Fri.
巨泉と浪華趣味道楽宗(その1)
浪華趣味道楽宗という遊びの会があった。巨泉にとっては大事な会である。何故大事なのか。それは巨泉のおもちゃ絵の購入や販売に道楽宗のメンバーが深く関わっていたからである。
 浪華趣味道楽宗は何時ごろできたのか。どうやらそれは1919(大正8)年ころらしい。
 肥田溪楓という趣味人がいた。溪楓は1887(明治10)年大阪生まれ。本名は弥一郎。この人については別に紹介することになるが、虎屋銀行、虎屋信託の取締役、大阪聚文社の監査役などを務めたが、経営は分家に任せ悠々自適に過ごした、そういう人である。
 溪楓が発行した個人趣味誌に『あのな』がある。その『あのな』に道楽宗10周年の記事があって逆算すると1919(大正8)年になる。
 
 『あのな』は1924(大正13)年2月11日に第1号と2号を同時に発行した。
 
 浪華趣味道楽宗をはじめた契機は、三田平凡寺が1909(明治42)年に創始した我楽多宗である。
 
 三田平凡寺については山口昌男氏の『知の自由人たち』の第11回「好事家集団三田平凡児と斎藤昌三」に詳しい。
 
  山口昌男『NHK人間大学「知の自由人たちー近代日本・市井のアカデミー発掘-」』日本放送協会 1997(平成9)年
 
 それによれば三田平凡児は本名三田林蔵。1876(明治9)年7月、東京の芝車町に材木商三田源二郎の子として生まれた。1909(明治42)年「我楽他宗」を創立し、「自家を「趣味山平凡寺」と号して開山した。開宗のいわれと動機は不明である。」「この「我楽他宗」が、ユニークな人的ネットワークの様相を呈するのは、大正八年(一九一九)に一〇人の会員を集め、自らを第一番趣味山平凡児としたうえで、各自に番号と末寺としての寺号をつけて発足してからのことである。その後、四国三十三か所に因んで末寺を三十二寺まで増やし、会費三三銭の月例会を開いて、趣味品の交換などを行った。」
 そしてこの「我楽他宗」を「一種の講、連、または連中、仲間といった、今でいえば遊びと学びをごちゃまぜにしたネットワークと見ることができよう。」としている。
 
 
更新日時:
2007.03.26 Mon.
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Last updated: 2007/3/26