木村旦水は本名助次郎。”だるまや”という書店兼版元の経営者。浪華趣味道楽宗から派生した娯美会の有力メンバーで、蒐集品は名家肉筆達磨絵葉書だった。また関西納札会でも活躍した。
川崎巨泉のおもちゃ絵の多くは自家版で、会員を募って販売したから一般の人の目に触れる機会は少なかった。しかし出版もした。その版元がだるまやである。巨泉がだるまやから出版したものには次のようなものがある。
『おもちゃ十二支』一帖 大正7年12月刊、『おもちゃ十二月』一帖 大正15年1月着筆同6月完成、『土俗紋様集』一帙十枚 昭和6年5月刊、『おもちゃ博覧会』一帖 昭和12年1月刊
川崎巨泉のおもちゃ絵がどれほどの部数出版され、売れたのかわからいない。この出版はあくまで巨泉の同好の士として巨泉を援け、巨泉の作品を世に残そうという心意気なのではなかったろうか。だから淡島寒月の父椿岳の『椿岳漫画』を大正8年に出すこともできたのではないか。それにしても椿岳の漫画を出版しようという目の付け所が凄い。
木村旦水が以外なところに登場した。高見澤たか子氏の著書『ある浮世絵師の遺産ー高見澤遠治おぼえ書ー』東京書籍、昭和57年刊である。この書を帯で紹介しよう。
「文豪荷風、建築家ライトを激怒させた贋浮世絵事件の陰にいた男。大正・昭和画壇の異才岸田劉生と江戸情緒も世界をさすらい、贋作者の汚名の中で浮世絵復刻に命をかけた天才浮世絵師高見澤遠治の波乱の生涯が初めて明らかにされる。(以下略)」
遠治は関東大震災後、
「急に大阪の錦絵問屋、だるま屋で仕事をする話がきまり、」「だるま屋では遠治をはじめ職人たちを月給制の丸抱えにして、将来遠治の制作になる版画を独占販売することになっていた。」
だるまやの世話で天下茶屋天神の森に住んだが、遠治は大阪に馴染めなかった。
「だるま屋へ行くと、主人が出てきて「まあおかけ、まあ、おかけ」というのが口ぐせであったが、それも遠治の癇にさわった」
旦水もかたなしである。そうこうしている間にだるまやが 遠治に特別注文した浮世絵の複製は20数枚になっていた。ところが遠治と旦水の間で取り交わされた約束を反故にして旦水が、遠治の複製3枚を売り払い、それがフランスの美術館に入ったとの噂を遠治は耳にする。この事件で遠治はだるまやと縁を切った、というのである。
原画と見分けがつかないほどの遠治の複製。それを旦水は複製と承知で原画と偽って売ったことになる。注文主旦水の横暴ということになるが、この事件がなかったとしても遠治と旦水が円満に仕事を終えたかどうか、両人の気質の違いを考えると心もとない。やはり両人がもう少し心を通わせていたらこのような事件は起きなかったのかもしれない。
旦水は巨泉との関係でもわかるように芸術を理解する人だと思うし、作品を物としてみるような人ではなかったであろう。遠治の事件だけを見て旦水を悪徳商人のように思わないでいただきたいと切に思う。
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